長崎の十字架
長崎の十字架は何を語りかけているのか。十字架
がキリスト教の代表的なシンボルであることは誰
でも知っている。なぜこの上なく残酷で呪わしい
死刑の道具がキリスト教のシンボルになったのか、
その答えも広く知られている。それはユダヤ人た
ちが一度は約束された救世主として歓迎し、自分
たちの王にかつぎあげたナザレのイエスに冒涜の
罪をきせて殺したのは、十字架につけてであった
からだ、という答えである。
しかし、キリスト教と十字架の結びつきに関して
万人が歴史的事実として認めるのはここまでで、
そこから先は信仰によってのみ意味を与えられ、
受け入れられるような事柄である。
では、キリスト信者以外のものにとって話はそこ
で終わってしまうのか、といえば、けっしてそう
ではない。なぜかといえば、キリストの死によっ
て十字架の意味が根本的に、まったく正反対のも
のに変ったことも、まぎれもない歴史的事実だか
らである。
「クリュソストモス」(「黄金の口」)というあだ
名で知られる四世紀の神学者は「(今や)キリス
トの十字架はいたるところで崇敬されている。
王たちは王冠をわきにおしやって十字架とを彼ら
の紫衣の上に、王冠に、武具に、聖別された食卓
の上に飾り、地上到るところで十字架が輝いてい
る」と証言しているが、状況は今日でも変ってい
ない。十字架を崇敬するのはキリスト信者(それ
も全部ではない)に限られるかもしれないが、
刑具としての呪いはすっかり消えており、むしろ
愛や和解のシンボルとして受けとめる人が多いの
ではないか。
では、あらためて十字架は今日のわれわれに何を
語りかけているのか。私はおそらく多くの人が耳
にしたことのある使徒パウロの次の言葉が、われ
われに答えを示唆してくれると思う。
「十字架の言葉は滅びる者たちにとっては愚かさ
であるが、救いの道を歩む私たちにとっては神の
力である。」
( 『コリント人への第一の手紙 』1.18)
つまり、十字架がわれわれに告げ、教えること
は、この世の知恵、人間の欲望や野心がぶつか
り合う世界でのみ役立つ知恵を求める者たちに
とっては愚かさの極みであるが、そのような知
恵を超え、過ぎゆく世界で演じられるドラマを
通じて、心の奥深い所で響いてくる神の摂理を
聴きとろうとする者にとっては、神の知恵と力
を示す言葉だ。ということである。
言いかえると、十字架がわれわれに語りかける、
というより、われわれに訴え、われわれを促し
てやまないのは、この世の知恵の限界を悟って、
人間とその世界を真実の幸福へと導いてくれる
神の知恵を求めよ、ということである。それは
根本的な価値観の転回、新しく生まれかわるこ
とともいえる回心への招きであり、実際にキリ
ストの死によって十字架の意味が根本的に変っ
たということは、十字架を軸にして世界の歴史
が大きく転回したということであった。
最後に、この「長崎の」十字架の意味について
一言つけ加えたい。「長崎の十字架」の素材は
1945年8月9日、原爆の灼熱で焼けただれた
建物の鉄骨が、再び鋳鉄の浄火をくぐることに
よって、いわば新たなる存在へと生まれ変った
ものである。それはまさしく、あのゴルゴダの
丘に立てられた刑具としての十字架が、キリス
トの受難によってすべての呪いを洗い浄められ
たことの追憶にほかならない。「長崎の十字架」
は、それゆえ、原初のキリストの十字架のメッ
セージをそのまま現代のわれわれに伝えるもの
なのである。すなわち、「長崎の十字架」は、
長崎と広島に投下された原爆、そして東日本
大震災によってひき起された福島原発の破壊的
な大事故によってわれわれが蒙った「受難」を
記憶にとどめさせる「十字架」であると同時に、
この「受難」を十字架の言葉、この世の知恵を
超える神の言葉として受け止め、そこから、
われわれの進むべき道を学ぶようにと促す
「十字架」である、と言えるのではないか。
稲垣 良典
九州大学名誉教授