top of page

『人工島をアートする』

2011年・夏

長崎で「原爆投下と被爆の記憶の遺産として残してほしい」との思いもむなしく、被爆した旧鎮西学院の校舎の取り壊しが行われました。
 

私は、その取り壊された跡地に、活水学院からの依頼を受け、平和祈念のためのモニュメントを設置いたしました。

2010年より着手した制作の中、折々に地元の方々の思いに触れ、また、その最中2011年の3月11日の東日本大震災による原発問題を目の前にして、今、この時期に、この平和祈念のモニュメントを制作していることを、アートに携わる者として、次世代に向けての継承や希望を担う道具として何とかしたいとの思いより、校舎の取り壊しの際に生じる鉄筋のスクラップを被災校舎の単なる鉄屑にして葬り去るのでは無く、新たに鋳鉄し「長崎の十字架」 を創出いたしました。
(この十字架の制作における費用は、作家個人負担でいたしました。)
 

旧鎮西学院中は1930年、長崎市内の別の場所から同市

竹の久保(現・宝栄町)に移転。取り壊される校舎はこの

時に建てられた。鉄筋コンクリート4階建てで、全校生徒

が集まれるチャペルを有し、暖房用のスチームが全教室に

配備されるなど当時としては最先端の校舎だったという。

戦争が始まると、学校も軍事色が強まった。

OBの溝上貴信さん(83)によると軍事教練や塹壕(ざんごう)掘り、イモ植えばかりの毎日で

「勉強をした記憶はない」という。敗戦間際には、軍需工場が校内に疎開していた。そして、

45年8月9日。

校舎の北東約500メートルの上空で原爆が炸裂(さくれつ)した。高熱と爆風で校舎は
4階がほぼ崩壊、3階も爆心地に面した北側が粉々になり内部は全焼した。

戦後、鎮西学院は長崎県諫早市に移転。
跡地は49年に活水学院が譲り受け、校舎も補修して使い続けたが、2009年に耐震化が

困難なことなどから解体を決定。校舎北西側の1、2階の一部を残し、今年12月末には

平和を願うモニュメントを爆心地の方角を向けて建てることにしている。
 
=2011/08/03付 西日本新聞夕刊より抜粋=

bottom of page