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ある初春の夕刻のこと。時折、稲妻が走り空気を切り裂かんばかりの大音響が響き渡るどしゃぶりの中を歩いておりました時に、ふと、幼い頃にびしょぬれになりながら、雨音の奏でる様々なリズムに心奪われ楽しんだ頃の懐かしい感覚が呼び覚まされました。銀色にけぶる風景の中、それはもう濡れる事などお構いなしに雨降りを楽しんだものです。そんな懐かしい思いにかられつつ、いつの間にか、こういった気持ちを失っていた自分に気づきました。 

 

今から8年程前のことです。佐世保市のハウステンボスで、スティール鋼鈑の巨大な手「遠い記憶の中で」を発表する機会を与えられました。常より、『アートは、私たちが求める普遍的な美しさのもと豊かな感性や知性の喚起を促し、あらゆる隔たりを超えてすべてのものを繋ぐツール』という思いを創作の原動力としておりますが、当時、私は、多くの手間と費用をかけてアート作品を設置することよりも、一本の樹木を植える事のほうが、その地で「生」の営みを紡ぐ様々な命に、生きる力を与え物語を生み出す豊かな空間を造り出すのではないか。といった迷いを抱えておりました。その最中、ある雨上がりの日に、ポケットから取り出したハンカチで、この巨大な手の作品に付いた水滴を「雨に濡れて可哀想ノ。」と言いながら拭っていた幼い女の子の存在を人伝てに聞き、無機質な素材で造られた「もの」の中にも、命や物語を見い出し、楽しむことの出来る心の在り方を改めて意識させられ大変に勇気づけられました。そして「パブリックアート」は人工物ではあるものの、それは、作品そのものを主張をするばかりでは無く、そこに在るという事が、空、海、風、小鳥、樹木などと共演し、尚一層、それらの存在を際立たせ時空の共有感や存在感、また、自然との一体感を促し、わたしたちの「心の環境」を作り上げるために活かすべきもの。という思いを確かなものといたしました。

現在、パブリックアートの存在を考える時、バラエティーに富んだ作品が、それは実に様々な場所に「屋外に於ける建造物の一つ」といった認識のもとに存在し「景観」として位置付られているのが現状です。そのような中、都市空間の中で生まれ育つ世代が多い現代では、それ以前の世代が豊かな表情を持つ日本の景色の中で、極、身近なフィールドで見構える事なく行うことの出来た自然とのふれ合いによって、自身の心の中で様々な物語を織りなし遊ぶ事「こころのすみかを持つ事」が少なくなったように思います。その結果が、今まさに社会全体の現象として起きている心の荒廃へと繋がっているように思えてなりません。そこで、この現象に、公的な場所で多くの方々とふれ合う機会に恵まれたパブリックアートを「心の環境を造り出すツール」として活用することで対処出来ないだろうかとの思いより、その方法を具現化することに取り組んでおります。その一つに、例えば、風力発電の巨大風車のコラム部分に、見たものが思わず触れてみたくなるような造形的な遊び(アート)を取り入れる。ということを考えております。

『人工島をアートする』

「環境押してのアート」

 今では、著しい普及のもと、私たちの意識の中にエコロジーの象徴として受け入れられている巨大な風車は、都会の景色を故郷として生きる現代の子どもたちにとっては、日本の原風景に慣れ親み、そこに心象風景を生み出す世代があるように、日頃より慣れ親しんでいるアニメやゲームの中の風景、例えば「風の谷のナウシカ」の「風の谷」のイメージなどと繋がって、その心の中に一つの心象風景をつくり出しているように感じています。そういった心に描くイメージのもと、夢を抱きつつ、現実の風車と接した時、そこには、経済やエネルギーの効率といった観点を重視した風車が存在するばかりで、その現実のもとに、こどもたちの心象風景としての風車の存在は、たちまちのうちに絶ち消されてしまっているように感じてなりません。京都ヘルメス研究所長をされておられます山中康裕先生は、近年、少年少女が犯す殺人や世間で起きる異常な犯罪が多発する事に対し、原因を個人の脳内の問題として捉えるのではなく「文化や文明の変化にもとづく、こころを包む自然や社会環境の変化」に求め「子どもたちは、いつの間にか、人工的な都市空間や情報洪水のなかで、元来もっていた自然との繋がりが断たれ、自然と切り離された生き方をとらざるをえなくなっている。」と指摘し、子どもたちを包む自然環境、とりわけ河川と樹木に焦点をおき、カウンセラーならぬカワンセラーとして活動をされております。この事からも、大樹を見ると抱き着き、耳をあて、生命の鼓動を聴きいるように、子ども達が風車を支える巨大なコラムにも同じように触れ、機械や羽根の回る音を自らの身体でもって感じる。こういった体験が必要だと考えております。実際に触れる風車を媒体として、子どもたちの心に在る夢の原風景・心象風景と現実とを繋ぎ次なる創造性を促し、豊かな「環境」のもとでの暮しを望む意識を芽生えさせるとともに、より多くのものとの共生への可能性を紡ぐことへと繋がるのだと考えています。このような体験を促すためにも、アートを導入剤として用いることは大変に意味在ることだと考えます。

 こうした「景観」としての枠を外されたパブリックアートの存在は、私たちの五感を刺激し、既成の概念を超える体験の場を創造するとともに、わたしたちの心の中に在る「心のすみか」を示し、豊かな感性で様々な繋がりを創造するための一つの手立てになると信じております。昨今、アートは「鑑賞」としての世界だけでは無く「イベント的」な要素を色濃くしております。それらを活かしながら、パブリックアートが、田畑を潤し農作物を育てる「慈雨」のように、社会を潤し人の心を育てる確かな存在としての力を発揮できるのは、わたしたちがその存在を、改めて「環境」として捉え、考察し、活かす事から始まるのだと思います。
 

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