『人工島をアートする』
「いやされるもの」
2005年 西南学院大学チャペル講話
今日は「いやされるもの」について考えてみたいと思います。このテーマを頂き、早速、インターネットで「癒されるもの」ノと検索してみました。すると「心の癒し」アロマセラピー・心理学・音楽・イルカ・森林浴・芸術などの分野をはじめとして、宗教・カルト・スピリチュアル、果ては「癒しの人妻サイト」など、実に約207.000件もの多種多様な分野で「癒し」という文字と遭遇することとなりました。余りにも多く存在する「癒し」の存在にめまいを覚えつつ、改めて、頭の整理を兼ねて辞書を引いてみると<癒す><heal><ヒーリング>とは病気や傷を治す。飢えや心の悩みを解消する。と記されていました。
みなさんも御承知のように、今、まさに癒しブーム到来の時代と言われています。至るところに「癒し」の文字が踊り、声高に叫ばれるその言葉の響きは、意識するまでも無く耳に入ってきます。そんな次から次へと現れる「癒しの事象」を、私たちは、何の抵抗も無く受け止め活用し、それでも、まだ満足せずに常に新しい「何か」の出現を期待し渇望しています。ここには、いつしか「癒し」という言葉の持つ、本来の意味とは相反する事象を生み出し、その言葉のみに依存してしまっている私たちの姿があるように感じています。
一体、なぜ、それほどまでに現代人は癒しを必要としているのかと、自らに問いつつ、改めて己の生きる空間「アートの世界」を見つめると、ここにも又、ヒーリングアートやアートセラピーといった事象が存在していることに触れることとなります。これは、医療や福祉の場においてクォリティ・オブ・ライフ=QOL(生命と生活の向上)が尊重され、そこにアートの持つ力を活かし人間本来の生命力に働きかけようということなのですが、「アートは、あらゆる隔たりを超えて総べてのものを繋ぐツール」であるという思いのもと、「生きる」ことと「アート」との関係を今一度、問おてみようではないかノといった活動をいたしております私にとっては、何よりのアートの活用法であると大変に喜ばしく、大いに賛同している事柄でもあります。
しかし、その一方で、実際にこれらの行われている事例や事象に触れる度に、そこには、より専門的な要素が高くなるほどに、本来、必要とされる要素を飛び越えて、その事柄が存在するための「既存の価値」に重きをおき、いつしか「マニュアル化」された中で、そこに依存してしまい、提唱する者たち自らが直に体験し経験するノということから遠ざかってしまうような傾向を感じています。
こういった現象は、このアートという分野に限らず、どの分野においても多かれ少なかれ見られることのように感じています。そういった事を踏まえた上で、今一度、「癒し」「いやされるもの」を考えてみたいと思います。これは、私の体験です。私はモノを創るということを生業にいたしておりますので、作品を制作する上で、デザイン性、造形性、それを表現するために必要な技術や素材、アカデミックであるか、現代社会へのアプローチは十分であるか?等、常に己が作家として存在することの主義、主張を表現することに専念いたしておりました。しかし、現在、作品を通して多くの空間や人々との出会いを重ねてきた中で、己の表現についてはもとより『アート』に対する考え方、想いに、少しづつ変化が生まれてきました。それはどういうことか簡単に申し上げますと、公園等のパブリックな空間に作品の設置が為された時に、以前は、その作品の持つ作者の想いや思想を、どう伝えるか、どう観てもらうかといった事を重視しておりましたが、今では、作品そのものの存在を主張するのでは無く、その作品がその空間に存在するという事を通して。そこに在る「空」や「海」「風」や「音」「小鳥」や「樹木」を感じてもらいたい。作品は、それらの存在を際立たせるために「ある種の役割」を持ってほしいノといった意識へと移行している自身を知ることとなったのです。
この体験をもって、アートと癒しの関係において、今、感じていることは、私たちを癒すのはアートそのものの存在だけでは無く、そのものを享受し、活用できる感性とともに在って始めて活かされるのではないだろうか?といった事です。これは、決して難しく構えることではないと思います。
少し目を瞑って見てください。そして、真っ青な晴れ渡った青空を見上げる自分を想像して下さい。今、目の前には、それは見事な青空が拡がっています。その青空だけでも大変に美しいですね。しかし、更に、そこに一筋の雲が現れ、上昇気流に乗って舞っている鳥の姿が加わり、一陣の風が樹木をゆらし、きらめく波間に木の葉が漂うというような空間が構成された時、どの要素一つをとっても、それは単独でも美しく見事なものですが、これら一つ一つのものが重なり合い、互いに効果しあった時に、そこには美しい調和が生まれ、互いに響きあう世界が現れます。どうぞ、目を開けて下さい。
私の申し上げる「アートを享受し活用させるノ」といった感性とは、このような事です。改めて申し上げるまでも無く、日頃より、みなさんの中で意識するしないに関わらず行っている事柄に過ぎないのがお判りかと思います。
私たちは、こういった「イメージする」「想像」といった行為を通して、自らの世界を創造し、更なる次元へと誘われます。そこには、今、在る現実に対しての更なる希望や願望、それを叶えるための思考をめぐらせて、生き生きと活性化された精神・感性のもとに存在する私たちの姿があります。そのような精神の中に自身を導き、過ごせることが一つの「癒される」という事へと繋がるのだと思います。
先にも申し上げましたが、今や「癒しがブームとなった時代」です。「癒し」をテーマに様々なグッズや催しが溢れ返り、個々人の選択の自由のもとに、それらの癒しを体験、経験できる時代です。「お金で癒しを買う」といった風潮であると言っても決して過言では無いと思います。こういった時世に対しての是非の判断を問うことは、さておき、ましてや、このような多種多様な価値観が混在する中で、絶対的な唯一無二の「いやされるもの」といった処方薬を限定することは、大変に困難を極めることだと感じていますが、そのような中に生かされている私たちが、氾濫する情報に依存せず、又、惑わされる事無く、自身にとっての必要な「いやされるもの」と出会うためにはどうしたら良いのでしょうか?
その答の一つに出会うために、まず、普段、意識する事なく、もしかすると気づくことすら怠っているような自身の身の周りに存在している草花や、樹、小鳥のさえずりや風の音に注意深く触れて、自らの感性を鋭敏に働かせ、おもいきりはばたいてみて下さい。その時、あなたは、暦や時間といった概念を超えた季節を感じ、空気を感じ、宇宙のリズムに触れている自身の感性を改めて知ることとなると思います。そういった自身に触れることで、日常の様々な憂いから解放される事があるかもしれません。
ここ西南学院大学は、そんなロケーションを求めるには、もってこいの豊かな自然の中に在ります。どうぞ、みなさん、まずは、この学内にて、風に揺らめく樹々のおしゃべりの中で、学びの言葉や聖書の言葉と出会ってみて下さい。更なる「癒し」と遭遇できると思います。