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『人工島をアートする』

「こころの中のアート」

  ~創造と想像~

2004年 西南学院大学チャペル講話

祈る力を身につけると題して「イメージ としての想像」から「クリエイティブとしての創造」について、お話したいと思います。今、私達は実に多くの情報、マスメディアの溢れる環境の中に生きています。この中で近年、特に新聞雑誌・テレビのコマーシャルなどのメディアアートの存在は、大変、大きな力となって私達に降り注いでいます。極限の地も、自らその地に行かなくとも、自宅でスナック菓子を頬張りながら現地から送られて来る画像を眺め、知ることができます。又、最近では、リアルタイムに流れてくるテロや戦争の惨事な画像より、悲しみや怒り、驚きといった感情を覚えます。そして、遠く離れた家族や恋人とも、携帯電話やテレビ電話を使う事によってコミュニケーションが取れるかのようなコマーシャルに惹き憑かれ、自らも、その手段を容易に手にすることが可能です。

 

このように、私達は、溢れ返る情報の中でメディアを通して「想像力」なくして、その情報を入手することが出来ます。そして、その情報をもとに自らが体験したかのように記憶し、自身の知識として応用しています。私たちは、このような時代に在って、人類史上、最も英知に満ちた便利な素晴らしい時代に生きているかの様に思われます。しかし、はたして本当にそうでしょうか?

 

あるテレビ番組で、皆様もご存じのおすぎとピーコのピーコ氏が、子供の虐待による事件に対して、なぜ事件に発展したのかということのコメントとして、その事件に至るまでの間、関わっていた大勢の関係者に対して、「想像力が足りないことが、この事件の大きな要因だと思う」と述べておりました。又、フランスの思想家ルソーは『エミール』の中で「他の人の痛みを、自分の肉体のこととして、心として感じとることができるのは、ただ想像力によってのみだ」と教育について書いています。

さて、マスメディア無くして存在し得ない現代の私達にとって「想像力」とはどのような意味をなすのでしょうか?渾沌とした時代の中で、当たり前のように流されるテロなどのような暴力行為の情報に対して、どこまで、その状況下で生きている人々の痛みや苦しみを理解出来るのでしょうか?2005年を間近に、戦争体験の無い私達は、戦後60年を向かえるという事実をどう解釈していけばよいのでしょうか?作家の井上ひさし氏は、原爆体験について、実際に体験出来ないこの広島・長崎の原爆体験を「こころの体験」として個人が各々の中で自覚することで、後生に伝えて行く事が出来ると言っています。この「こころの体験」これこそが、ルソーやピーコが言う「想像力」ではないでしょうか。メディアアートに使われる「想像・イメージ」は、先にも述べましたが、自らが体験、経験しなくとも得ることができます。それは他者の造られたイメージを享受しているに過ぎないのですが、ここで言う「こころの体験」とは、己の心から生まれる「想像・イメージ」を指します。それは、決してバーチャルでは無く、どんな小さなことでも感じることのできる敏感な心の働きが、そこには存在しています。

 

この「こころの体験」をわたしは「祈り」だと解釈いたします。自分のため、若しくは誰かのために祈るノその時、わたしたちは、自分を超えて神や自然といった第三者に対して祈ります。これは「私だけの体験」から「他者への体験」へ移行することであり、又、「想像・イメージ」からもう一つの「創造・クリエイティブ」へと移り変るのだと思います。「祈り」は、私という個人を超えて行くのです。そこには、自分と他者との、まだ見ぬ新たなる繋がりが存在し、平和が存在する。ノこのように祈りをもって「こころの体験」をする。これがクリエイティブな行為「創造」ではないでしょうか?私はこの「祈り」を「こころの中のアート」だと捕らえています。「祈り」は場所や時間を問いません。又、それぞれのシチュエーションによって、様々に異なった内容が「祈り」となります。

 

皆さんは、祈るための空間と環境に恵まれた中におられます。是非とも、創造する力=祈る力を身につけて下さい。

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