『人工島をアートする』
「祈りの場・対話を求めてる」
『荒井 献』著作集(岩波書店) 付属月報に掲載
昨年夏、(1999年)多摩丘陵にある恵泉女学院大学へ伺い、荒井献先生にお会いいたしました。その際に、大学の長年の希望であった「チャペル」建設が決まり、いよいよ建設が開始されたのだが、在学生も含む反対派もいて大変に苦労されたというお話を伺いました。その折、空間を扱う事を仕事としております私は、軽率にも「建設反対に関する問題等が起った時は、施設(チャペル)の必要性を語りますノ」などと申し上げ、その旨を荒井先生とお約束いたしました。あとに大変な事を約束してしまったのではないかという思いと、猪突猛進型の自分の性格を反省する日々を送っておりましたがノ。その後、先生の御配慮からか?建設問題に関しての御連絡は無くホッといたしておりましたところ、この度、岩波書店様より荒井献著作集を刊行するに際し月報のための執筆をして頂けないだろうか?という便りを頂戴いたしました。最初は、私ごときに何の間違いだろうかと我が目を疑いましたが、あの夏の荒井先生とのお約束が思いおこされ、文章を書くという事を非常に不得意とする私なのですが、この機会をお借りして、その際に交わした約束を果たす事が出来たならという思いのもと、岩波編集者の意図とは懸け離れた事になってしまうのではという懸念を抱くところではありますが、思う処を綴ろうと思います。
私は物を創造するという仕事を通して、日頃より都市空間の中での建物の果たす役割や景観との調和を考えます。その時感じる事は、欧州では理想主義と自然主義という二つのスタイルを持つゴシック的な世界を背景に、教会や市役所等の施設を中心とした街が創造され、そこには自ずと空間の調和や秩序が生み出されてゆくのに、現代の日本はそうではように思える事です。又、都市空間とは、あらゆる人々とともに世界を創ってゆく、おこないから生まれてくるものだと考えます。このような観点から私は「チャペル」建設のお話を伺った際に、大学のキャンパスをこれら都市空間のミニチュア版と考えました。すると、大学の空間とは、その大学の持つ理念や思想を背景に構成されるべきであるのに、現在のそれら多くは、大学そのものを存続させる事に重きを置いた発想のもとに創られているように思えてなりません。それは、ホテル産業が冠婚葬祭のために、とても洒落たチャペルを次から々へと建ててゆく現象に酷似していると思います。その結果、信仰に深い造詣を持たず、スタイルにこだわる人を中心に「チャペル」=おしゃれな空間ノといったイメージが植え付けられているのも事実だと思います。一方、チャペルという言葉を辞書で引くと礼拝堂と書かれていますが、残念な事に、それは誰にでも開かれた空間とは言い難たく、宗教や宗派にとらわれた閉ざされた空間ノといっても過言ではないと思います。そのような現状を踏まえて、私は対話をするための空間としてのチャペルが必要だと感じています。今や、インターネット等の普及で、あらゆる手段で四六時中、対話の出来る時代となりました。しかし、そこでの対話は、表皮的な言語を用いて単なる情報伝達のための道具としての言葉が飛び交い、時として本質の見えない幻想の世界で交わされている事も少なくないように思います。確かに情報の収集等が容易にでき、便利の良い時代ではあると思いますが、その反面、そこに含まれている様々な要因を汲み取る能力が失われつつある人間の姿が浮き彫りにされているのも、決して否定できない事実だと思います。
かような中、私の考える対話とは、これとは異質のもので、言葉は決して定まったものでは無く古来より人々が全ての感性を解放して自然の中で自分の言葉を捜したように、各々の感性や感覚によって産み出されるものが交わされる事です。そのような対話の中で改めて、他者への思いやりや慈しみが生まれてくるのだと思います。今、都市の中で生きる私達には、そういった対話の出来る空間が無いように思います。物質的に或る種の飽和状態となり、内面探究が叫ばれている今、あえて、己の身を運び、魂を解き放ち、内なる声に耳を傾けるノという役割を担った空間が必要なのではないでしょうか。40~50年程前には、望むと望まざると拘わらず存在した対話の空間、それは例えば祠や鎮守の森であったり、何気なく道傍に置かれてあるお地蔵様であったりと、宗教や民族に関係なく誰もが接する事が出来るパブリックな空間が存在していました。そういった日常に在る何気ない時と空間の中で、神と出逢い自然と対話する事が出来たのだと思います。そしてここで最も大切な事は、それが特別に意識される事なく体感出来ていたという事だと思います。私たちは、今も昔も変わり無く、意識化された中での答え捜しは、そう難しいものではないと知っています。むしろ意識できない時に気づきや答えに触れる事で、神との出逢いや恩恵に気づかされてきたのではないでしょうか。
こういった積み重ねが感性というものを育み、今の時代と比べると、それこそ少ない言葉で豊かな対話が為されていたのだと思います。こういった観点から私は、礼拝や儀式等のために使う施設を超えた、己の内なる言葉を捜し真なる対話の出来る場としてのチャペルの必要性を考えます。それは、何も特別な建物では無く、先人たちが何気ない空間で自然と対話が出来たように、キャンパスに降り注ぐ太陽や月の光の移ろいや、風や木々のざわめき、雨音や花の匂いに触れる事ができ、その事によって私たちの遠い記憶の中に眠る、真の意味でのコミュニケーションを呼び覚まし、その静寂な空間の中で神と人が対話するノそのような空間です。私たち人間は、文字文化の空間から脱し「言葉は人間の全体性との関わりにおいてとらえなければならない。」と著書の中で荒井先生が言われるように、言葉や対話を身体的に、空間的に、宇宙的に、一つ一つの言葉を立体的にとらえる事によって新たなる驚きと発見をする事と確信しております。又、そのような言葉の持つ奥深さを理解出来る感性を持ち合わせているという事も。
私たちは今、テクノロジーによるコミニュケーションの手法に、依存せずにはおられない生き方を強いられているように思えます。だからゆえにこそ、日常の中に何気なく存在する祈りの場が必要だと思えてなりません。