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『人工島をアートする』

「アシジの聖フランシスコとわれわれ」 

 アシジの聖フランシスコを現代の都会のまんなかに、と聞いた時は一瞬不意をつかれた感じでしたが、詩人フランシスコからインスピレーションを得たという彫刻を見せていただいて、鎌田さんの話を聞くうちに、この着想のすばらしさが段々と実感として迫ってきました。アシジの聖フランシスコといえば、聖人たちのうちでも一番、イエス・キリストその人に似通っている聖人として知られ、徹底した「貧しさ」のうちに生きた人、「太陽の讃歌」をはじめ、数多くの珠玉のような詩を生み出した天成の詩人、というイメージがすぐに浮かんでくるのですが、そのフランシスコが生涯を通じて為しとげようとしたこと、わたしたちにもたらした根本的なメッセージは何だったのでしょうか。フランシスコは廃虚のようになっていた聖ダミアノ聖堂を建てなおすことから始め、「小さい兄弟たちの修道会」と呼ばれる、純粋に福音の精神によって生きようとする修道会を創設し、或る時は十字軍に加わってエジプトの回教君主をキリスト教に回心させようと試みるなど、実に様々なことを実現しようとしたのですが、その彼が根本的に意図したのはどのようなことだったのでしょうか。

 それは一言でいえば、人間が本当に人間として生きること、あるいは人間が「人間であること」を学びつつ生きること、でした。聖フランシスコにとって完全な人間はイエス・キリストただひとりでしたから、「人間であること」を学ぶ最善の、そして唯一の道は、「キリストにならう」ことでした。聖フランシスコが実行し、人々に勧めた「キリストにならう」道が、どんなに厳しいものであったかはよく知られているので、ここでは立ち入りません。私がここで強調したいのは、それはつきつめたところ「人間として生きる」「人間であること」を学ぶ道であったということです。そして、そこに聖フランシスコの現代のわれわれにたいする根本的なメッセージがあると思います。

 

 小鳥に説教する聖フランシスコ。それはたんに牧歌的な風景ではなく、本当のコミュニケーションを求める人間の姿です。われわれはコミュニケーションを、言葉という「道具」をつかって効率よく行う操作のように受けとめていることが多いのですが、本当のコミュニケーションは人間が本当に人間として生きるための「いのちの糧」である真理や善や美をわかちあう、生命の営みです。人間が本当に人間として生きるのはそのようなコミュニケーションを通じてです。

 聖フランシスコは「いのちの糧」である真理・善・美の源泉そのものである神と親しく結ばれていたので、小鳥たちとさえもコミュニケートすることができました。コンベンショナルな人間の言葉言葉(アルファベット)をぬぎすてて、万物を創りだした神の「ことば」に参与することができたのです。そのような聖フランシスコにとって自然界のすべて=小鳥も太陽も風も水も=は兄弟であり、姉妹でした。彼はけっして「母なる」自然を讃えたのではなく=それは容易に神話的、あるいはカルト的な自然「崇拝」につながります=兄弟であり、姉妹である自然界のすべてのものと親しく交わり、それらすべてのものの存在と働きの根源であるところの、目に見えないものへと心を挙げたのです。

 聖フランシスコが生涯をかけて為しとげようとしたのは、現代風にいえば、本当の意味での「生涯学習」の場をつくりあげることだったといえるでしょう=人間が本当に「人間である」ことを学ぶ、自己中心的な、争いを好む、死をまねく人間の生き方から、隣人を愛し、平和をもたらし、いのちへと到るような人間の生き方へと「生まれ変わる」ことを学ぶ、という意味での「生涯学習」の場をつくりあげようとしたのです。

 こんにち、私たちの「家」を、そして私たちのコミュニティーを、聖フランシスコがめざした「生涯学習」の場に近づけようとすることは、まったくの夢物語りでしょうか。鎌田さんが考えておられる「アシジの詩人」の像はまさに、このような美しい夢を具象化したものだと思います。この像が表現しているのは、バベルの塔を築くにも似た労苦から解放され、「アルファベット」をぬぎすてて、本当に人間らしいコミュニケーションを求めて家路をたどる人間だ、といってもよいのではないでしょうか。

 

 「アシジの聖フランシスコを現代の都会のまんなかに」という着想は、けっしてたんなる夢ではなく、私たちが追求すべき美しい夢であると思います。私たちはこのような美しい夢を追う能力をあまりにも失ってしまった、と感じます。

稲垣 良典

​九州大学名誉教授

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